アメリカ移住物語(15)

年が明けて新年早々の私たちの新居は
コンクリートの打ちっぱなしのガレージ奥の農作業部屋でした。
床にベニヤ板を置きカーペットの下敷きになるパッドを敷き詰め
昼間はダイニング兼リビング、夜は寝室になる一間暮らし。
明かりは天井からぶら下がった裸電球がひとつ。
写真で見た戦後間もない日本の家庭の一コマのようでした。
朝は川の字に敷いた布団をたたみ子供たちの小さなお絵かきテーブルで食事。
料理はBBQのコンロで、結構それひとつでバラエティ豊かな
食事ができました。

農作業を終えて子供を寝かしつけたあとにはペンキ塗りが待っていました。
一日でも早くまともな家にするためには室内のペンキを塗る事が
先決でした。
夫とおしゃべりすることもなく黙々と深夜までひたすらブラシを動かしました。
天井に夢中になっていると後が大変。首がまっすぐにできず暫くは
筋肉痛に耐えなければいけませんでした。

睡眠以外は肉体労働の一日でしたが
もう長い道のりをかけてキヘイまで往復しないでいいのが
精神的に楽でした。

雨季が終わり春一番の強い風が吹く頃、ようやく昭和初期の生活もおしまいになり
本当の新居が完成しました。
この家が完成するまでにどれだけの人々に支えられ、お世話になったことでしょう。
感謝の気持ちをこめて畑で採れた野菜でおもてなしをすることにしました。
一番心配していた私の両親も日本からやって来ました。
50人ものお客さんに両親はAloha Spiritがどういうものなのかを理解し
日本人が忘れかけている人情が残るこの島の人々に感心していました。

クリスチャンでもない私たちに何かと気遣ってくれた牧師先生がお祈りをしてくれました。
「この家によい風が吹きますように。」

アメリカ移住物語(14)

「家は建てるより建売を買うほうがいい。」
「これから数え切れないほど頭痛が起きるよ。」
家を建てる前にどれだけの人からこの言葉を聞いたことか。

ハワイの家はいたって簡単。
まるでお菓子の家の壁をビスケットで貼り付けていくのと同じ。
窓をはめ込んだ壁を立てていくのです。

3ヶ月も掛からないはずでした。
しかし、マウイ郡の役所の検査を計算に入れていませんでした。
土台、枠組み、電気配線、水道配管、など全てにおいて
検査をパスしなければ次へと進めません。
その上、検査願いの電話をしてもすぐに来てくれるとは限らず
2週間も何も手がつけられないままの時もありました。

私は家の建築が一向に進まないあせりと毎日キヘイから
往復2時間以上の道のりをかけての畑仕事で疲れきっていました。

子供たちは学年の途中からの転校を避けるためクラの小学校へ
通わせていました。
学校が終わると私が農作業を終える日暮れまで
簡易テントの中で宿題をしたり犬と戯れ、畑を庭のようにして遊びました。
子供たちも犬も帰りの車の中では疲れきって聞こえるのは寝息のみ。
家がクラにあればこんな暮らしをしなくてよいのに。
この周辺に仮の引越しを考えたこともありました。
でもあのスケールの所帯で何回も引越しをする気にはなれません。
なんとか1日でも早くクラに住みたい、と夫に懇願しました。

夫が出したアイデアはすでに完成している1階部分で生活すること。
一階は車2台分のオープンなガレージ、その奥に野菜を保存しておく
冷蔵室になる部屋、そのまた奥に収穫後の農作業をする部屋がありました。
ガレージに家具や所帯道具などの引越し荷物を置き
奥の部屋で寝泊りをするという案でした。
雨露しのげばという言葉のような生活に当分なるのかと想像すると決心がつきません。
文明の利器に慣れすぎた生活から原始的な生活はできるのだろうか、と。
けれど私以上に子供たちがそれを望みました。
「なんとか生きていける。」と言う夫の言葉も重なり
大雨の降る大晦日に私たち4人はレンタルしたトラックで
キヘイを後にしました。

アメリカ移住物語(13)

『Law of Attraction』 (引き寄せの法則)
正にこの言葉のとおり私たちが必要とする人びとが
集まってきてくれました。
町で知り合った老夫婦の息子が建設会社を営んでおり
それがクラにありました。
友人はお隣さんで引退したあと小さな農園をやっている老人を
私たちに紹介してくれました。


いかにも人のよさそうでおだやかな人柄が顔に表れている、それがマイクでした。
夫のできるかぎり自分で家を建てたいという希望を聞いて
すんなり承諾してくれました。
彼の見積もりでは全てプロ任せにする費用の3分の1で済むみたい。


アーサーはありとあらゆる職業を経験し、多岐にわたったライセンスを持った
博学の老人でした。
今は引退をしたあと細々と趣味のハーブ作りをしてそれをアメリカ本土へ
出荷していました。
私たちにやる気があるのならハーブ作りを教えてくれ自分の取引先へも
紹介してくれるとの事。
その上、彼は設計士だったことがわかり私たちに
理想の家のアイデアを設計図に加えてくれました。

いよいよクラの土地が動き始めました。
ミキサー車が入り家の土台となる木枠にコンクリートが流し込まれ
子供たちは初めて見る光景に興奮し、「お家ができる」と大はしゃぎをしていました。

夫は買ったばかりの大型トラクターでアーサーの指示に従って
どんどん畑の畝を作っていきました。

私は新たなスタートを感じ、ここに至るまでに助けてくれた人々への感謝の気持ちで
がんばっていこうと思いました。

アメリカ移住物語(12)

クラに土地を購入したもののどこから手をつけて
よいかわからない荒れた雑木林。
とりあえず、更地にしなければ農業どころではありません。

ブルドーザーを入れてもらうとあっという間に土が一面に広がって見えました。
夫は早速レンタルしてきた耕運機で土地を耕し始めました。
カタカタ ガがガ-ッ!何度もこの音のくり返し。
大小さまざまな石が耕運機に当たって行く手を拒みました。
耕す前に石を退けるのが先決。

明けても暮れても石を手押し車にのせて敷地の脇に寄せる作業ばかり。
二人では埒が明かずマウイに家族や親戚がいない私たちは
日本から助けを呼ぶことにしました。
私の弟はアップライトピアノを一人で運ぶくらいの怪力の持ち主でした。
最も強く頼りになる弟は電話一本ではるばるマウイに石運びのために
やって来てくれました。
弟が来てくれてからは石取りのスピードもずいぶんと速くなりましたが
それでもキリがないほどの石の数。
『昨日すっかり取ってなくなったのに今日行くと石が子供を産んでいた。』
『夢の中でも石がいっぱい。』
毎日、繰り返される会話でした。


石取り労働でヘトヘトになりながらも考えなければいけない事は山積みでした。
まずは家を建てること。
限られた予算の中で一番大きな割合を占めます。

夫が自分で家を建てると言い出しました。
フレームや外壁、電気配線などはプロに頼み
内装やペンキ塗りなど自分でやれば建築費用は半分で済むとの事。
仕事も収入もない今、なるべくお金を節約しなければいけません。
農業が順調にいって収入を得られるまでどのくらいかかるのかしら、と
不安になっていた私。

あっ!逆の発想をすればいいんじゃない?
夫が大工さんとなって稼いでると思えば。
ヤル気満々の夫は知人、友人に片っ端から相談に行き
私たちの手作りの家はだんだんと現実に近づいて来ました。

アメリカ移住物語(11)

ひとすじの希望になるアイデアはスーパーで
日々の献立に悩んでいるときに浮かびました。

家庭での食事は日本で作っていたものと同じように
和食中心の食生活にしたいのに
ここマウイのスーパーではあまりにも食材が乏しく
何度も野菜売り場をウロウロしていました。
このとき、気がつきました。
いかに日本料理というのは
野菜が豊富で四季折々を感じさせる献立が多いかと。

『マウイで日本の野菜を作れないだろうか。そして私のように
旬の野菜を求めている人のためにビジネスとして農業はできないものか。』

こんな突拍子もなく無謀な話に夫はてっきり反対するかと思っていましたが
意外にも「いいかも。」と。
もう八方塞がりの私たちに何でもいいからやってみようと思ったのかもしれません。

ハレアカラ山のふもとのクラは農業、酪農が盛んな土地でした。
日本人一世の人々が苦労して土地を開拓して
今は2,3世の人々が中心となって農業を営んでいました。
ポルトガルから移民して来た人々は牛、馬を扱うの長けていました。
彼らの家畜たちがどこまでもつづくなだらかな牧草地帯で
のんびり草を食べている風景を見ていると
ここに住んで農業をやりたいという気持ちがもっと強くなってきました。

やはり父は猛反対でした。
「庭の雑草も抜いたことがないのに出来るわけがない。」でした。
土地を探してもらった不動産屋も
「えーっ!お勧めできないよ。」と否定的。
唯一母だけは
「一生懸命がんばってダメだったらやめればいい。」
と背中を押してくれました。
標高700m、3000坪の雑木林が私たちの新しいスタートになりました。

アメリカ移住物語(10)

お正月が終わり両親が日本へ帰ると
寂しさと不安に襲われ なぜ、素直に泣きついて
一緒に日本へ帰らなかったのかと後悔しました。
ここに残ると決心したものの具体的に暮らしていくための
何かをみつけたわけでもなくあせりばかりが募りました。

ある日、息子の通う学校の校長先生から電話がありました。
「あなたの息子が女子生徒を傷つけた。」
夫と学校に飛んで行くと校長、教頭そして担任の先生が待っていました。
クラスの女の子の太ももを鉛筆で突いたということ。
幸いけがは大したことはなかったのですがアメリカでは
訴訟問題になるので絶対に暴力に対して厳しく教育してくれと
何度も念を押されました。
感情的になった私は息子を怒鳴りつけました。
「学校に行きだしてからずっとあの子にいじわるされてん。
ボクが仕返ししたら先生に言いつけるねん。
ボクは英語がわからへんからボクだけ先生に叱られるねん。
あんまり腹が立つから鉛筆で突いてん。
なんでボクをハワイに連れてきたん?
ボクはここに来たくなかった、日本へ帰りたいよー。」
心のうちを全て吐き出した息子は大泣きをしました。
私はなんてことをしてきたのでしょう。

自分がアメリカに住みたいがために
子供のことをよく考えてやっていなかったなんて。
今さらながら自分のやって来たことに強く後悔しました。

悪いことは続くもので夫が早朝から汗水たらして働いたにも
かかわらず給料を支払ってもらえませんでした。
夫が不法就労で何処にもクレームできないことをいいことに。

やっぱり日本へ帰ろう。
マウイは私たちを歓迎してくれなかった。
ここで私たちは傷ついただけ。

けれど夫の心は希望を持っていました。
『引越し代だけでもどれだけ掛かったか思い出してみーよ。
家も売って、日本へ帰らへん覚悟でやってきたんやろ?
1年も経ってへんのになんでもそんなにうまい事いくわけないやん。
うまくいったほうが怖いでー。」

感情で何事も決めようとする私にいつも夫は楽天的で前向きな
アドバイスをしました。
夫の意見を聞いているとなるほどと私自身の気持ちが落ち着いて
くるのがわかりました。

アメリカ移住物語(9)

あっという間にアメリカ企業に売り渡された
アパートやショッピングモール。
私たちは職を失い、ただのアパートのテナントになりました。

楽しく夢のような生活はたったの3ヶ月でした。
これから本格的に始まるはずだったアメリカ生活、
何もかも失ったような気分になりました。
ショックが大きく悲しみや不安といった感情もなく
ただ毎日、海を眺めて日々を過ごしていました。

なにをどうしてよいかわからないまま
時間が過ぎ年末になりました。
私の両親が孫に会いたいのと様子を見にマウイにやって来ました。
ハワイ移住を強く反対した父に「やっぱり。」と言われるのが
くやしくて「夫は新しい仕事をみつけ上手くやっている。」と言いました。
実際、夫はアパートのガーデナーの下で見習いのような事をして
日々、働いていました。

年が明けて日本より1日遅れの元旦にNHK紅白歌合戦を
夕食を囲みながら観ていました。
キッチンにたった時、喜納昌吉のしゃがれ声が聞こえてきました。
歌は『花  すべての人の心に花を』でした。

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今まで抑えていた感情の扉が開き、とどめなく涙が溢れてきました。
両親に聞かれまいと蛇口を全開し声を殺して泣きました。

なんの為に私ははるばる日本からやってきたの?
つらく悲しい体験がしたくてハワイに住んでるの?
私の夢はなんだったの?
私の大好きだったアメリカはどこにあるの?
泣きながら私は自分自身に尋ねました。

「あなたも花を咲かそうと思ってハワイにきたんでしょう?」
テレビからそう語りかけてくれているように感じました。
そうよ、泣いてわらってどんな花になるかわからないけれど
ここでがんばってみよう。
歌が終わるころ私はそう決心していました。

アメリカ移住物語(8)

長い夏休みが終わり子供たちはほとんど英語もわからないのに
楽しく学校へ通いだしました。
夫はアパートと小さなショッピングセンターの管理で
行ったり来たりの忙しい毎日を送っていました。
私といえば朝の家事を終えたあと、アパートのテナントからの
修理のリクエストを聞いたり家賃を集めたりでこれまた
大忙しの日々でした。


私専用の車を買いました。当時、流行っていたDodge のミニバン。
日本では見たことがなかった広々とした7人乗りの車。
子供たちのお友達も乗せて学校の送り迎えをしました。
まさにアメリカ的なママの生活でした。


毎週末はビーチで1日を過ごすのが当たり前になっていました。
子供たちはどんどん真っ黒になり
英語はしゃべれないけれどここで生まれ育ったローカルの
子供の風貌になっていました。


そんな楽しく忙しい日々を送っていたある日、
夫がとても暗く悲しい顔で帰ってきました。
『ボクたちが管理している全ての不動産のオーナーである日本企業が撤退する。』
すでに日本ではじけていたバブルの波はゆっくりと
海を渡ってハワイまでやってきたのでした。

アメリカ移住物語(7)

マウイ島の南に位置するキヘイという町が
私たちの住む場所となりました。
強い風、赤土だらけの砂漠のようなところ。
一昔前は『タダでもいらない』と言われたキヘイの土地でした。
ここからさらに東へつづくマケナへとアメリカ人好みの
ホテル、コンドミニアムの建設が進められ新たな
リゾート地が出来上がろうとする時期でした。
建設現場を行きかうダンプカー、舗装されていないでこぼこ道、
そして道ばたの雑草をながめていると
日本の高度成長期だった子供の頃に
タイムスリップしたなつかしさを感じました。


夫の仕事はアパート、商業ビルの管理をすること。
私たち家族はそのアパートの一室に住むことになりました。
アパートといってもプール,バーベキュー施設付き、そして道路を渡ればビーチ。
『毎日、リゾート気分で暮らせる』
なんだか日本にいる友達に自慢したい気分でした。


日本から船にゆられてやって来た家財道具すべては
無事カフルイ港に着きました。
税関員立会いのもとにコンテイナーは開けられました。
価値の高いものはいくらすでに使って中古品であれ
関税がかけられます。
税関員がコンティナーの中に入りズルズルと何かを
引きずる音が聞こえました。
税関員「この長い棒は一体何に使うものですか?」
私『洗濯物を干すものです。」
こんなものまではるばる日本から持ってきたのかと
一同大笑い。
日本の生活で使っていたもの全てを持ってきました。
おまけに母がコンティナーに余裕があることを知ると
実家の物置から餅つき機、お客様用座布団20枚など
この際、粗大ゴミ処分とばかりに引越し荷物に紛れ込ませていました。
残念ながら関税がかかるようなたいしたものは全くありませんでした。


部屋に荷物が収まり落ち着いた生活が本格的に始まりました。

アメリカ移住物語(6)

ハワイで再会した夫の友人から
「仕事を手伝わないか。」と言う話に
二つ返事をしたのは私でした。
慎重でよく考えてから物事を決める夫は
非常に消極的でした。
もう一度サンフランシスコに住みたいとこの旅行で
強く思った私はハワイもアメリカであり
ここから始めてやがてはサンフランシスコで
暮らせるようにしていけばよいと考えたのでした。



「思い込んだら命がけ」の私は否定的な意見は聞く耳持たずで
着々とハワイへ引越しをする準備を始めました。


一足先ににハワイへ経った夫から仕事はマウイ島で
ゆえに私たち家族の住む所もマウイ島と聞かされました。
オアフ島しか行ったことがない私に入ってくる情報は
「砂糖キビ畑ばかりの田舎」
しかし、都会育ちの私は田舎の想像はできず
ビーチに椰子の木しか思い浮かばず。



20フィートのコンティナー丸まる一杯になった
引越し荷物が神戸港を出発した数日後
私は子供二人を連れてマウイ島カフルイ空港へ降り立ちました。