告白 つづき

Post-321さて、ピアノで先生と私にしごかれた娘は大学進学を
考えなければいけない時期になりました。
自分の意思ではなく物心がついたときから
しっかり音楽教育が人生に組み込まれていたことを
常に嘆いていた娘は大学ではピアノをやらないことを宣言しました。

けれどそれはしばらくして撤回されました。
ピアノ一筋でやってきた彼女には他に得意な教科もなく
自身が特別勉強をしたい専攻やなりたい職業がなかったのです。
それよりも今までのピアノの功績は数々の奨学金やほぼフリーパスで
大学に入れるといったメリットが大きいことを
学校のカウンセラーより知ることとなりました。
やっぱりピアノしか自分にはないと悟った娘は音大へと進みました。

そして娘のピアノ人生は大学卒業のための演奏会を最後に
終わりました。
私に対する精一杯の抵抗でしょうか、
その日をもってまったくピアノに触れることはありませんでした。

ここからは私の思いとザンゲであります。
後悔している事はなぜ、娘を褒めてやらなかったか。
の一言に尽きます。

アメリカ人は感心するほど褒めるのが上手。
あの手法で娘に指導していたなら
もしかして今頃彼女は優秀なピアノ教師になっていたかもと
思うと残念でさびしくなります。

娘に本人の意思に関係なくピアノを強制させたことに
後悔はないか?とお思いの方もいらっしゃるでしょうが
それに対しては一切の悔いはありません。
何かを成し遂げるには努力、習得のための長い時間、忍耐とエネルギーと
経済力の全てが必要ということを教えたかったのです。


エイミーさんの著書にはその教育に反対するコメントが
多くあると聞きましたが彼女の気持ちも理解できます。
エール大の教授になるには単に頭がよいだけでは到底無理です。
ポストを狙って多くの似たような学歴、経歴を持つ人々を押しのけて
強靭な精神力と体力を持たなければやっていけません。
将来、優秀な両親を持つエイミーさんのお嬢さんたちが
自分と同じ立場になることを予想しているのでしょう。

冒頭の著書「告白」も主人公は男の子たちでしたが
母親との関係が事件の原因のようでした。
どれもこれも子供のためによかれ と思う教育は思惑どおりにはいきませんね。
アジアの教育ママでもハワイの自然派放任主義ママでも共通するのは
子供を愛しているからこそという思い、あるいは思い違いなのでしょうか。

最後に私の憧れだったEちゃん。
一人っ子で偏差値が高いお嬢様学校に通い、
ピアノが上手でレッスンにはいつも可愛いお洋服を
着ていた彼女は受験に失敗をした翌年、
スキー場で心臓発作で亡くなりました。
そのことを聞いたのはつい最近のことなのですが
彼女が弾いていたベートーベンソナタが
30年以上も経った今でも不思議に思い出されます。

告白

お題は湊かなえ女史の著書からパクりました。

ここ数週間全米の子供を持つママたちの間でそして
アメリカ在住の日本人ブロガーの皆さんの多くも
話題にされているのは下記の記事でございます。


教育中国の母の恐るべきスパルタ


これには7千以上のコメント、その上殺人予告までエスカレートするような
騒ぎとなっております。

ここで私の告白、実は私ってエイミーさんに近い母だったのです。

娘が生まれたとき考えたことが二つありました。
ひとつ目は自分が母に言われていやだったことはしない。

3人兄弟の長女として生まれた私は常に母から
「おねえちゃんなんだから。」
といわれ続けました。
おかげで責任感は人一倍強くなりましたが。

小学校のときはずっと図書委員でした。
町金の取立屋のごとく
図書館で借りた本を返さない生徒に
執拗に返却をもとめたものです。
おかげで返却率100%の私の実績に先生方が
何がなんでもおまえがずっと図書委員だと
うれしくもない任命をされいっそう責任感を感じて
しんどかったです。
そして引き寄せの逆の法則があるという実証。
無責任党の代表のような伴侶を見つけてしまうことに。
娘にはおねえちゃんを自覚させるような育て方を
しなかった上に父親のDNAをしっかり受け継いだせいでしょうか
無責任党主をしのぐええかげん人間になってしまいました。
おかげで人生ずっと私が責任感をしょいながら
生きていくこととなったという結末です。トホホ。


さて、メインのお話であるのは二つ目でして
私はこの中国人ママに負けず劣らずの音楽教育に熱心な母親でした。
度を越した熱心さは私自身の育った環境からでした。
小さい頃からピアノが大好きで上手、上手と周りから言われ(両親を始めとする
親戚だけなんですが)高校生になって進路を音大に決めました。
町のピアノ教室から受験のための音大の先生へと移ったのは高校1年生のときでした。
それはびっくりするほどの厳しいレッスンで春の陽だまりから極寒の北極へ連れて行かれた
ほどのショックを受けました。
たとえば弾けない箇所の楽譜をビリビリニ破かれたり椅子から突き落とされたりで
今なら確実に虐待ピアノ教師として新聞を賑せていたことでしょう。
同じく音大を目指していた友人たちも先生にビンタをくらったり
ボケ、カス、クズなんて毎度のレッスンで罵られたりを聞いていたので
音大の先生ってそーいうもんだと思っていました。
親にほめられて育つと他人の厳しさはかなりキツイ、を学んだ私。
娘が生まれたとき自分が受けた温度差のショックを味あわせないためには
私が厳しく指導しようと思いました。
この点については間違いなかったようで娘は
かなり厳しいといわれている教授に指導を受けても
「ママより優しい先生。」と のたまってました。

そしてもうひとつ私が影響を受けたのは同じピアノ教室の門下生だった
Eちゃんの存在でした。
やはり同じくして音大を目指していた
彼女は高校1年生のときにすでに
いつでも受験できるだけの準備が整っていたのです。
なぜなら彼女のお母さんはピアノの先生でEちゃんは幼い頃から
音楽全般の早期教育を受けていたのでした。
絶対音感はなく聴音や理論の勉強に四苦八苦していた私は
Eちゃんは近道、私は遠回りと感じたものでした。
自分の子供には是が非でも早期教育をと強く思った一因でした。



娘が幼い頃に後押しする要因もありました。
大学の恩師は絶対音感をつけるために4歳の誕生日から音感教育を始めることや
本人のやる気なんかを待っていたらいつまでたっても習得できない、
つらい思いをしなければそこそこモノにできない、などと言われました。
レッスンデビューの日にかなり厳しく指導されまだ言葉もおぼつかない娘は
おもいっきり泣いていました。
こんな幼い子供に泣かせてまでやることなのかと一瞬考えましたが
この子の将来には絶対ためになると迷う気持ちを打ち消しました。
そして私は自分の経験も含めて娘の音楽教育に一層力を注ぎました。
エイミーさんに限りなく近づいたのは娘が高校生になったときです。
コンクールでは常に多数の受賞者を出す先生の門下生になりました。
このピアノ教室にはまさにエイミーさんのような中国人ママたちの集まりでした。
子供たちはピアニストになれるほど才能を持ちながらその道へは進まずに
アイビーリーグの大学へUSプレジデントスカラシップなどのアメリカでもトップクラスの
奨学金をもらい弁護士、ドクターなどを目指し進学していくのでした。
このピアノ教室ではコンクールがないときは1日3-4時間の練習、
コンクールの数週間前には5-8時間の練習は当たり前でした。
そしてコンクールの2-3日前になるとこの教室は真夜中まで開放され
先生も缶詰状態でした。
もちろんチャイニーズママたちは付きっ切りで休憩の合間には
間を入れずに宿題や読書をさせるといった徹底ぶりでした。
私も負けてはならんと付きっ切りの指導をしました。
泣きながらも耐えた娘は振り返って思い出せば
ピアニストとして最高の時期だったなあ。


とっても長文になってしまいました。
この頃の事を思い出すととめどなく記憶がよみがえってきまして。
つづきは日を改めて書きたいと思います。

Bonne Année !!

Post-316遅くなりましたが明けましておめでとうございます。
すっかりご無沙汰しておりました。
コメントをくださった方々、忙しさに託けてお返事も書かずにごめんなさい。



おっちゃんも元気にクリスマスにやって来ました。




さて、そろそろサンフランシスコに戻ってブログを再開したいと
思います。
今年もよろしくお願いします。